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2016-10-27

大川小津波訴訟。学校に過失を認め14億円の賠償命令。大川小の悲劇から見えるもの、見えないもの。

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世田谷区議会議員、桃野よしふみです。
今朝の新聞各紙一面で大きく報道されている「大川小津波訴訟」の判決。
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東日本大震災の津波で犠牲になった石巻市立大川小学の児童23人の遺族らが、市と県を相手取り計23億円の損害賠償を求めた訴訟で、仙台地裁は昨日市と県に対し合計約14億円の支払いを命じる判決を言い渡しました。
2011年3月11日。
当時、大川小には児童103人が在校、教職員11人が勤務中(校長は休暇中で不在)。
14:46地震発生。
14:52頃、15:10頃と大津波警報発令を知らせる防災行政無線が校庭でも聞こえたとのこと。
15:30頃、市の広報車が学校の前を通りながら沿岸の松林を津波が抜けてきたことを警告、すぐ高台に避難するよう拡声器で呼びかけ。児童や、教職員の中には学校のすぐ裏手の裏山に避難しようとの声も出た。
15:30-35頃、児童達は教職員の指示のもと。裏山ではなく、津波が向かってくる河口に近い「三角地点」(標高7m)と呼ばれる場所へ移動を開始。その直後、川を上った津波が堤防を越え、移動中の児童達を飲み込む。児童74人、教職員10人の計84人が死亡、行方不明となり、当時学校にいて助かったのは児童4人と教職員1人だった。
裁判では、「現場にいた教員らは津波が襲来することを予見し、認識できた」とした上で「(教員らは)自らの判断で自主的に避難できない児童らを可能な限り津波を回避し得る合理的に予想される場所に避難させる義務があった」と結果回避義務違反を認定しました。
裁判で学校の過失が認められたことは非常に重要なこと。
遺族の皆さんの思いが通じた判決であると思います。
しかし、大切なことはなぜ、このような事故が起きて、再発防止にどのような策が必要なのかということでしょう。それが裁判の経緯を見てもほとんど見えてこないのが残念です。
なぜ、津波発生を認識してからも数十分の間、児童たちは校庭にとどめ置かれたのか。そしていざ避難する先はなぜ「三角地点」だったのか。学校から裏山へ逃れようとすれば、10mの高さまで登るのに小走りで1分、徒歩で2分程度だということが裁判を通じて明らかになっています。なぜ「裏山へ逃げよう」という意見をとらず、河口に近い標高7mの地点に歩いて向かおうとしたのか。教職員はいかなる心理状態で何を根拠に判断をしたのか。
報道(10/27東京新聞)によると、市側は震災の約一ヶ月後から保護者説明会を始めましたが、内容は曖昧で説明の中身は回を重ねると変遷したと言います。児童が学校の裏山に逃げようと訴えた事実も、一旦認めた後に「確認できていない」と否定し、のちに再度認めたことがあったとのこと。更に、市教育委員会が、生き残った児童や教師に聞き取りをしたメモを廃棄していた事実も明らかになっている模様。これらは、責任を逃れようとする行為、事実を覆い隠そうとする隠蔽行為と取られて当然のことです。
悲しい事実ですが、失われた子ども達の命は2度と戻っては来ません。
なぜ子ども達が犠牲になったのかを明らかにし、悲しい事故が起きないよう策をたてること。
何より、遺族の皆さんが望んでいることではないでしょうか。

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